「橋本郷土カルタ」であなたも “橋本の達人”に!!『け』
こんにちは😄 めぐり報です❗️
「橋本郷土カルタ」であなたも
“橋本の達人”に✨
今回は31枚目の「け」のご紹介です。
「京王線 町をにわかに 変化させ」
(京王相模原線)
私達が普段「京王線」と呼んでいる路線は、正しくは「京王相模原線」といいます。
京王相模原線は、調布駅から橋本駅まで12の駅を結び
東京都と神奈川県を出入りしながら走る全長22.6㎞の路線です。
大正5年(1916年)6月1日に『京王電鉄(株)』の前身の『京王電気軌道(株)』が開業した、調布駅〜多摩川原駅(現・京王多摩川駅)間の『多摩川支線』がその始まりです。
この路線は、主に多摩川から採取した砂利を運搬するために作られた路線でした。
当時、砂利は道路や鉄道の軌道路盤などの土木資材、コンクリートの骨材などの建築資材として需要が多く、東急電鉄(多摩川)や相模鉄道(現JR相模線…相模川)など、川の砂利の運搬を目的に作られた鉄道は他にもありました。
(相模線は「じゃり鉄」と人々に呼ばれていたそうです)
特に大正12年(1923年)の関東大震災の後は、復興需要で大量の砂利が採取されたとのことです。
しかし長年砂利を採取した結果、川底が下がって河川護岸や橋の基礎が浮き上がるなどの弊害が生じたため、1960年頃からは砂利の採取が原則禁止されました。
その後、昭和46年(1971年)に京王よみうりランド駅ができるまで
55年間もの長い間『1駅区間の路線』でしたが、多摩ニュータウンにアクセスするための路線として少しずつ延伸工事が始まり、路線名も『多摩川支線』から『相模原線』に変更されました。
そして、3年後の昭和49年(1974年)に調布駅〜京王多摩センター駅までが開通しました。
その14年後の昭和63年(1988年)に南大沢駅まで延伸しましたが、南大沢〜橋本駅 までは更に用地買収に時間がかかり2年後の平成2年(1990年)3月30日についに橋本駅が開業しました。
調布駅から橋本駅まで全線開通するまで実に74年もの歳月がかかったことになりますね
なお、隣の多摩境駅は当初作られる予定がなかったのですが、住民や地権者の強い要望により橋本駅開業の翌年の平成3年(1991年)に開業し、京王相模原線の中で一番新しい駅になりました。
(そういえばそうでした 工事中の多摩境駅を通過する電車に乗っていた記憶がよみがえってきました。あれから30年…)
京王相模原線の橋本駅は、乗降者数が京王相模原線の中で1番多く京王電鉄(株)全体の中でも6番目に多いとのことです。
(2016年当時)
また、京王電鉄(株)の中で自動改札機が初めて導入されたのが橋本駅だそうです。
(これは意外でしたね。新宿駅より早かった、ということでしょうか?そういえば昔、うちの子ども達が改札機を通ると「ピヨッピヨッ」と音がするので面白がっていましたが、もしかすると大人がごまかさないための仕組みだったのかも…)
ただ、京王相模原線はかつては津久井方面まで延伸されるという計画がありましたが、色々な事情から完成されないままに終わり、がっかりした方々がとても多かった、と聞いています。
京王相模原線が橋本まで延びたことにより、新宿だけでなく、都営地下鉄新宿線への直通電車も運行されるようになり、それまで八王子や町田経由で行っていた都心に、始発電車で簡単に行けるようになって橋本の利便性が大いに上がりました。
JR横浜線・JR相模線に加えて京王相模原線が橋本まで開通したということは、都心への通勤・通学が容易になったということで、北口の再開発が進んだ平成12年(2000年)前後から高層マンションが駅付近に次々に建設されました。
そして他の地区からたくさんの人達が移り住むようになり、橋本の都市化が急激に進みました。
また、現在新たな『駅』を建設工事中のJR東海のリニア中央新幹線が開通すれば(2027年頃の予定❓)ますます駅の周辺(今度は南口が)の様子がかなり変わることでしょう。
このような状況から考えても、相模原市の北の玄関口としての橋本の重要性は今後更に高まるものと思われます。
京王相模原線のおかげで橋本は公共機関、商業施設、図書館、映画館、ホールなどたいていのものが駅の近くにある、とても便利な町になりました。
でも北口、南口共に少し歩けばすぐに豊かな自然が広がっていて、今でも宿場町の名残や古い寺社、石碑や言い伝えなどの歴史が、ささやかながらちゃんと息づいていることも捨てがたい橋本の魅力だと思います。
京王相模原線が連れてきてくれた便利さと共に、自然や歴史も大切にする、
そんな橋本人でいたいものですね。
今回の参考文献は….
⭐️『京王線 井の頭線 街と駅の1世紀』(矢島 秀一 著)
⭐️『橋本の歴史ガイドブック』(橋本の歴史を知る会 編)