「橋本郷土カルタ」であなたも “橋本の達人”に!!『せ』
こんにちは🤗 めぐり報です❗️
「橋本郷土カルタ」であなたも
“橋本の達人”に✨
今回は46枚目の「せ」のご紹介です。
「昔日(せきじつ)の くらし伝える 相澤日記」
(相澤日記…市指定有形文化財「歴史資料」)
まず、「相澤日記」を書いた相澤菊太郎さんについてご紹介します。
相澤菊太郎さんは、慶応2年(1866年)高座郡橋本村の篤農家、相澤安次郎氏の次男として生まれました。
相澤家は代々橋本村の名主を務めた旧家で、橋本宿の中ほどに本家があります。
◆菊太郎さんのプロフィール
- 明治5年(1872年)、学制発布間もない瑞光寺の本燃学舎で、兄の安右衛門氏と共に学びました。(6歳)
- 明治19年(1886年)から熱心に英語講習会に通い、時代の流れに遅れないように将来に備えたとのことです。
(20歳~:カルタの絵札を参照) - 明治25年(1892年)、本家の兄の安右衛門氏から分家して、両国橋のたもとに家を構えました。(26歳)
- 明治30年(1897年)相原村の助役になりました。(31歳~42歳)
(明治22年に町村制により、橋本村などが合併して相原村になりました) - 明治41年(1908年)から大正9年(1920年)まで12年間、相原村の村長を務めました。(42歳~54歳)
- 村長を退いた後、大正14年(1925年)~昭和10年(1935年)までの11年間、瀬谷銀行(現・横浜銀行)の橋本支店長を務めました。(59歳~70歳)
村長在任中には、横浜鉄道(株)の橋本駅の設置(明治41年…1908年)
退任後には相原農蚕学校(現・相原高等学校)の創立(大正12年…1923年)
相模鉄道線(現・JR相模線)の乗り入れ(昭和6年…1931年)
などに連日奔走し、地元の将来の発展、教育の充実のために多大な尽力をしました。
生涯最大の痛恨事は、大正3年(1914年)に、病弱だった妻の里さんが三男三女の6人の子ども達を残して亡くなったことです。
ちょうど村長の仕事が一番大変な時期で、周囲から何度も再婚を勧められましたが、子ども達の気持ちを思い、終生再婚はしませんでした。
菊太郎さんは日頃口数の少ない温厚な人物だったそうですが、一度決めたことは決して譲らない面もあったそうです。
また、明治人らしい勤勉さで96年という、当時は珍しい長い生涯の間地元のために働き続けた人で、次に紹介する『相澤日記』の他にも66年間に及ぶ『金銀出入帳』を66冊残しており、これもまた貴重な歴史的資料となっています。
相澤菊太郎さんの生涯で特筆すべきものは、何と言っても『相澤日記』の存在です。
『相澤日記』は、19歳の明治18年(1885年)の10月9日から、96歳で亡くなる10日前の昭和37年(1962年)4月16日まで、実に78年間もの間、入院した8日間以外1日も欠かすことなく❗️書かれた日記です。
日記の原本は55冊あり「夜寝る前に毛筆の細字で、1日の出来事を時局から家の事まで備忘録として記して1人楽しむのが習慣だった」とご本人が述べています。
(昭和37年発行の雑誌「私たちの希望」の中の談話「四代に生きる」より)
最初は『菊太郎漫筆草紙』または『相澤野史』というタイトルでした。
そして、全巻とも和紙の古い帳簿をばらして裏返しにしたものに罫線を引き、1行の罫線の中に毛筆の細字で2~3行ずつ日記が書いてあるそうです。
相澤菊太郎氏の、数えで生誕100年目にあたる昭和40年(1965年)4月14日に、氏の三男の相澤栄久(よしひさ)氏が1巻目の『相澤日記』(明治18年~明治25年)を活字本として自費出版し、『相澤日記』が初めて人々の目に触れることになりました。
『続 相澤日記』(明治25年~明治35年)
『続々 相澤日記』(明治36年~明治45年)
『相澤日記 大正編』(大正元年~大正15年)
『増補 相澤日記』(明治29年~明治35年)
※この増補版は、『続相澤日記』が抜き書きだった部分があるため、完全版として改めて発行したもの
以上、全5巻の『相澤日記』の活字本が12年間をかけて刊行され、市立図書館に寄贈されました。
(昭和編は日記としては存在しますが、活字本としては刊行されていません)
橋本図書館にも全5巻揃っており、そのうち『相澤日記大正編』と『増補相澤日記』は、貸し出し可能です。
(他は館内利用のみ)
- 慶応・明治・大正・昭和の96年間にわたる四つの時代を生きた同一人物が、生涯同じ場所で78年間もの間、入院した8日間以外1日も欠かさずに書き続けていること。
- 55冊にのぼる日記が1冊も欠けることなく、土蔵の中で完全な形で保管されていたこと。
(多くの市民の日記は、散逸していることが多い。現在も原本は相澤菊太郎家で保管) - 三男の栄久氏が大変な苦労の末、膨大な毛筆の原文を読み取って活字本として刊行し、図書館に寄贈されたため、一般人も研究者も容易に閲覧できること。
- この日記の特徴として、日々の生活と社会の動きを、一切感情を入れずに淡々とした文章で記していること。
そのため公文書や偉人の伝記などからは知り得ない庶民の普段の生活や意識の変化を、長期間にわたって継続的に知ることができること。
以上のことから『相澤日記』は、明治・大正期の相模原の地主や養蚕農家の生活及び社会の動きを詳しく知ることができる、第一級の歴史資料として、平成15年(2003年)4月1日に相模原市の『市指定有形文化財』に指定されました
学会の評価も高く、歴史家の色川大吉氏は「民衆生活研究上、燦たる光輝を放つもの」と評しています。
また、『相澤日記』は『相模原市史』にも多数引用されています。
まさに『橋本の宝』と言っていい存在ですね
最後に、19歳の相澤菊太郎さんが初めて書いた、記念すべき明治18年10月9日の日記をご紹介します。
「九日 午前五時ニ起キ馬屋ニ入ル。麦稈ヲ乾シ散シ及正午十ニ時迄藪ノ竹切 是ハ下屋引移志ノ地面トナル為 午後一時ヨリハ薬師様ニ而成田山祭式ニ付休業セリ」
片仮名まじり文なので、ちょっと読みにくいですが、こんな感じで橋本の日々の暮らしを78年間も書き続けたのですね。
「何もない日はない」と日記を書こうとしてもなかなか続けるのは大変です。淡々と備忘録的に…がコツかもしれませんね。
実は私自身、10年以上前にこの『橋本郷土カルタ』で知るまで、相澤菊太郎さんのことも『相澤日記』のことも全く知りませんでした。
橋本にもこんなに素晴らしいものを残してくれた人がいることを、ぜひ皆さんにも知っていただきたいと思い、今回はこんなに長いご紹介になりました。
ここまで読んで下さった皆さん、本当にお疲れ様でした。
カルタブログもいよいよあと2枚となりました。
もう少しだけお付き合いをよろしくお願いします。
★今回の参考文献は…
- 『相澤日記』(相澤 栄久 著)
- 『続相澤日記』(相澤 栄久 著)
- 『続々相澤日記』(相澤 栄久 著)
- 『相澤日記大正編』(相澤 栄久 著)
- 『増補相澤日記』(相澤 栄久 著)
- 『ある明治人の生活史~相沢菊太郎の七十八年間の記録』(小木 新造 著) 中公新書 714
(橋本図書館にあります)