「橋本郷土カルタ」であなたも “橋本の達人”に!!『ゐ』
こんにちは!めぐり報です!!
「橋本郷土カルタ」であなたも
“橋本の達人”に✨
今回は25枚目の「ゐ」のご紹介です。
「井戸埋まり 恐かったですねと もらい水」
(関東大震災)
★本題に入る前に『ゐ』について…
『ゐ』ってあまり見かけない字ですね。
『ゥイ』と発音し、わ行の『い』になります。
カタカナは『ヰ』
こちらもあまり見かけないですね(ウヰスキーとか…)
ひらがなの『ゐ』の元になった漢字は『為』で、カタカナの『ヰ』の元になった漢字は『井』です。
子ども達とカルタ大会をする時は、必ず最初に『ゐ』と『ゑ』の説明をしています
関東大震災は、大正12年(1923年)9月1日の午前11時58分に発生した大地震です。
震源地は相模湾北西部で震度はマグニチュード7.9でした。
昼時ということもあって火を使っていた家が多く、東京の下町と横浜はほとんど焼け野原になりました。
被害は東京・神奈川・千葉・静岡・埼玉・茨城・山梨の1府6県に及び(当時東京は「府」でした)死者・行方不明者は約10万5000人にのぼりました。
翌9月2日の朝に暴徒襲来のデマが流れて、自警団が多くの無実の人々を殺害したため、その日の夕方に戒厳令が出されたとのことです。
火にあおられた人々が隅田川に飛び込み、川は死体で埋まりました。
そして、火は9月3日未明まで燃え続けたそうです。
神奈川では、小田原や鎌倉に大きな津波が広範囲に押し寄せ、甚大な被害が出ました。
横浜では火事で街がほとんど焼けてしまった上に、石造りの建物がたくさん倒壊して、多くの圧死者が出たそうです。
橋本村周辺は、幸い内陸地帯で赤土の関東ローム層で覆われていて、比較的地盤がしっかりしているため大きな被害がなく、深い地割れなどもありませんでした。
『相澤日記 大正編』(相澤栄久 編…栄久氏の父で橋本村村長の相澤菊太郎氏が長年つけていた日記。『せ』の札で紹介)によると、
橋本村で倒壊した建物は、居宅4・住居外8・倉庫4の計16棟でした。
また、地震発生時に各家で真っ先に火を消したため、幸い火事も起きませんでした。
しかし大地震の後、毎日何回も余震が続き、ほとんどの人が家の倒壊を恐れて数日間竹やぶや桑畑に避難して寝泊まりしていました。
その間、雨が降った時もあり、露営はなかなか大変だったようです。
(絵札の左上の方にその様子が描かれていますね)
夜になると、東の方の空が火事で赤く染まっているのが見えたそうです。
余震は9月18日まで毎日のようにあり、その後10月13日にも日記に「…余震アリ」と記されています。
橋本でも暴徒が襲来してくるという噂が流れ、男達が鎌や小刀を持って夜警団を作って巡回したとあります。
香福寺の墓地の墓石がほとんど倒れて、その様子はまるで河原のようだったとも書かれています。
また、相澤家の本家の井戸はカルタのように埋まりはしなかったものの、井戸の周りの縁石(3本)や、籠に入れていたウナギがたくさん井戸の中に落ちたとあります。
それから、以前『り』の札(相原高等学校)でご紹介したように、9月15日早朝には雨降る中を、相原農蚕学校の森校長先生他職員2名と生徒合わせて、50余名で『自転車救難隊』を編成し、カボチャや芋類など学校の農作物百貫(375kg)を避難所になっていた県庁に届け、大変喜ばれました。
そして、その日の夕方5時頃に帰ってきたと記されています。
『橋本の昔話』(加藤 重夫 著)によると、大震災が起きた9月1日はもともと橋本神明大神宮の祭典日でしたが、この日に未曾有の大震災に見舞われたことを村民が恐れたため、翌年から祭典日を9月2日に変更したとあります。
(その後何回か日にちが変更になり、現在は8月1日に近い土曜日・日曜日に行っています)
『橋本の昔話』の153ページから『橋本郷土研究会会報・関東大震災特集』として、当時の橋本郷土研究会の会員19名が、関東大震災の思い出や家族から聞いた話を詳しく書いた文章が載っていて、当時の橋本の様子が具体的によくわかりますので、ぜひご一読ください。
とても興味深い話がたくさん載っていますよ。
また、154ページには上にある写真も掲載されています。
今回の参考文献は以下の2冊で、どちらも橋本図書館にあります。
·『相澤日記 大正編』(相澤 栄久 編)
(閲覧のみ)
·『橋本の昔話』(加藤 重夫 著)
(一部貸し出し用あり)