「橋本郷土カルタ」であなたも “橋本の達人”に!!

こんにちは!めぐり報です!

「橋本郷土カルタ」であなたも

“橋本の達人”に!!

今回は3枚目の「は」のご紹介です。

「母忙し 子育て養蚕 畑仕事」

(ははせわし こそだておかいこ はたしごと)

 (明治から昭和初期の農家の主婦)

 

1. 橋本の養蚕の様子はどんなだったの?

相模原はほぼ台地のため、水脈が深くて稲作には向かず、主に畑作を営んでいましたが一番の現金収入の手段は養蚕でした。橋本でも同様に明治以降の主な産業として、養蚕が盛んに行われていました。

10年ほど前に取材させていただいたK·HさんとT·Hさん(お二人とも東橋本在住)のお話から、昭和初期当時の養蚕の様子をまとめてみました。

◆K·Hさん…女性。昭和10年(1935年)生まれ。

・明治初期から、蚕の卵を産み付けてある「種紙」を長野県の岡谷や蚕稚蚕場から買って、蚕を卵からかえして育てていました。

・養蚕は春、夏、秋、晩秋の年4回行われ、繭と生糸の両方を出荷していました。

・糸取りは母の仕事で、まず繭をホウロウの鍋で煮た後に丁木という道具で糸の端を探して糸を引き出します。次に繭5個分くらいの糸をまとめてそれを小さな輪に通して枠(写真4枚目)に巻き取る…というやり方でした。

・生糸の太さは「デニール」という単位で呼ばれていて、だいたい5~7デニールの糸にして出荷していました。(今でもストッキングの厚さを「○○デニール」と表示していますね。:ぽっ:)

・蚕が小さいうちは、柔らかい桑の葉を桑切包丁(写真5枚目)で刻んで与えました。
春の桑は枝ごと与えましたが、それ以降の桑は指につけた「爪」で葉を1枚ずつ摘んで与えました。桑には「一文字」「ねずみ返し」など10種類くらいの品種がありました。

・春先や晩秋の寒い時期には蚕室を炭であたため、桑の葉を乾燥させるために石灰を振ることもありました。

・とにかく冬以外は毎日蚕の世話が忙しく、家族総出でやっても仕事が多いので、とても大変でした。

◆T·Hさん…男性。昭和12年(1937年)生まれ。

・家は三階建てで、すべての階に「お蚕部屋」がありました。このあたりは一面にたくさんの桑の木が植わっていたので、「桑海地」と呼ばれていました。

・蚕は春、夏、秋の3回繭の形で出荷していて、家のすぐ近くに繭を集める集荷場がありました。

・蚕の世話は大変忙しいので、子ども達も登校前、帰宅後、休みの日におとなの手伝いをするのは当たり前でした。

・戦後は工場の煙が桑の葉について、それを食べた蚕が病気になったり繭の出来が悪くなったりしたことと、化学繊維の台頭で絹の需要が減ったことなどから、だんだん養蚕は廃れていきました。相模原市の最後の養蚕農家4軒が養蚕をやめたのは、平成22年(2010年)末とのことです。

 

2.子育て地蔵って何?

東橋本の「宮上児童館入口」という交差点を南に少し入った所にお地蔵さまの祠があり、「子育て地蔵」(写真6枚目)と呼ばれています。昔は幼くして亡くなる子どもが多く、その供養のために享保4年(1719年)に建てられたものです。もとは別の場所にありましたが、付近の土地区画整理のために昭和24年(1949年)に現在の場所に移されました。「子育て地蔵」は近所の方達に大切に守られていて、春のお彼岸の日には蓮乗院のご住職が、「子育て地蔵」を信仰する皆さんと共に供養されているそうです。

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