「橋本郷土カルタ」であなたも “橋本の達人”に!!『き』
こんにちは😄 めぐり報です❗️
「橋本郷土カルタ」であなたも
“橋本の達人”に✨
今回は38枚目の「き」のご紹介です。
「気動車(ディーゼルカー)の音なつかしき 相模線」
(相模線)
気動車(ディーゼルカー)は、ガソリンなどの燃料をディーゼルエンジン内のシリンダーで燃焼させて進む列車のことです。
相模線は開業した大正10年(1921年)からは蒸気機関車
次に昭和10年(1935年)からはディーゼルカー
そして平成3年(1991年)からは電車…
と3回姿を変えて現在に至っています。
ディーゼルカーは電気を使わないので、電線がありません。
そして、独特の音と黒い排気ガスが特徴です。
皆さんは下の写真のようなものを見たことがありますか❓
これは『タブレットキャリア』という物で、小さい革の鞄の中にタブレットと呼ばれる金属製の円盤が入っています。
その円盤で、単線の同じ線路に2つ以上の列車が走って衝突する事故を防止するために行う『タブレット閉塞』という作業をします。
駅のホームで駅員さんと運転士さんが、タブレットキャリアを交換している様子を見たことがある人もいるかもしれませんね
平成3年(1991年)に全線電化された時に、CTC(列車集中制御装置)に変更されてタブレットが廃止されたため、この光景はもう見られなくなりました。
相模線は、大正10年(1921年)に相模鉄道(株)として、茅ヶ崎〜寒川間で開通しました。
2021年の今年はちょうど100周年に当たります
当時は蒸気機関車で開通当初から利用客が少なくて経営が苦しかったそうです。
そのため、建築資材としての相模川の砂利輸送が重要な業務となり、人々に「砂利鉄」と呼ばれたそうです。
大正12年(1923年)の関東大震災の復興で相模川の砂利が大いに使われ、その活況を元に昭和6年(1931年)に茅ヶ崎〜橋本まで全線が開通しました。(全長33.3km、現在18駅)
当時、橋本駅北口の線路脇で真田ひも工場を経営していたW さんのお宅では、水量の多い井戸水を蒸気機関車の相模線に提供していたそうです。
- 昭和10年(1935年)ガソリンカーを経てディーゼルカーになりました。(朱色のキハ型車両)
- 昭和11年(1936年)には八王子駅まで乗り入れるようになりました。
- 昭和11年(1936年)には八王子駅まで乗り入れるようになりました。
- 昭和19年(1944年)国に買収され『国鉄相模線』になりました。
- 昭和39年(1964年)砂利採取が禁止されたため、砂利輸送を中止しました。
- 昭和39年(1964年)砂利採取が禁止されたため、砂利輸送を中止しました。
この頃、相模線は運転本数が少なく、駅で待っている人が思わずしゃがみ込むことから『しゃがみ線』とあだ名がつくほどでした。
県内で唯一の単線のディーゼルカーが時には1両で走る姿が見られたものです。
- 昭和62年(1987年)に国鉄民営化に伴い『JR相模線』となり、平成3年(1991年)に全線電化され、当時、最新型の205系のステンレスカーになりました。
- 令和4年(2022年)さらに新型車両E131系の車両へとなりました。
この時のダイヤ改変により、相模線の八王子への乗り入れがなくなってしまいました。
しかし、現在も運転本数は他線と比べるとかなり少なく(1時間に2〜5本)単線で無人駅もあり
乗降時に利用客がボタンを押して出入りするなど、のんびりした一面が残っています(八高線もそうですね)
最近開発がめざましい海老名駅周辺など沿線の住民が増えて、通勤・通学の足としての需要が高まる中、複線化と運転本数の増加が今後の相模線に期待されることではないでしょうか