「橋本郷土カルタ」であなたも “橋本の達人!!『さ』
こんにちは🤗 めぐり報です❗️
「橋本郷土カルタ」であなたも
“橋本の達人”に✨
今回は37枚目の「さ」のご紹介です。
「境川 挟んで子ども等 対決し」
(昔はいた ガキ大将)
境川はご存知のとおり、橋本近辺では東京都(町田市)と神奈川県(相模原市)の境界線になっている川で、カルタの説明にあるように昭和初期の男の子達は川を挟んで戦争ごっこに明け暮れ、本当に信じられないくらい仲が悪かったそうです
10年ほど前に、東橋本在住で昭和12年(1937年)生まれのHさんに色々昔のお話を伺ったことがあるのですが、とにかく川の向こうの子達とは訳もなく仲が悪くて常に対立していて、いつも口げんかや石の投げ合いをしていたそうです
そんなわけで、お母さんに頼まれて向こう岸の家に届け物をする時は、いつどこから石が飛んでくるかわからないので、『命がけ』(⁉️)だったとのこと
でも、「その『対立している』ことを遊びとして結構楽しんでいたのかも…」とも話されていました。
川とか村境とかの境界線で対立する…というのは大昔からある、人間の習性のような気もしますね。
もちろん、今はそんなことはありません笑
安全かつ、自由に橋を渡って往き来できますのでご安心くださいね‼️
(当たり前ですね)
(Hさんは終戦時8歳。小学2年生)
宮上地区(東橋本)で生まれ育ったHさんに伺った、約80年近く前の子どもの頃の様子をご紹介します。
★遊び
- 境川に堰を作って泳いだり、魚や生き物(ハヤ・ビワコッパヤ・ドジョウ・ウナギ・ヤツメウナギ・川エビ・モクズガニ・沢ガニ・イモリ・ヤモリ・カエルなど)を採ったりしました
- 家の周りに植えてある防風垣(樫・カナメモチなど)に登って、防風垣の木の枝伝いに1度も地面に下りないようにして、他の家をどこまで渡って行けるか…という遊びが特に楽しかったそうです。
★家の手伝い
- Hさんの家では、養蚕をやっていて3階建ての家の1階から3階までお蚕部屋がありました。
春、夏、秋の年3回繭を出荷するので、繁忙期には子どもも一緒に家中で蚕の世話をしたそうです。 - 毎朝必ず、学校に行く前に廊下の拭き掃除と部屋の掃除をするのは子どもの仕事でした。
- 学校から帰って遊んだ後、夕方には薪割り、風呂沸かし、庭掃除などをしました。
- 夜は米と麦の混ざったごはんの他に、必ずうどんを作って食べましたが、うどんを打ったり、調理したりするのは子どもの仕事でした。
- 畑の草取り、蚕の世話は随時やり、豚や牛の世話もしました。
★道普請
地区ごとに年に何回か(主に冬の農閑期)当番が回ってきて、道普請をしました(中学生以上の子どもは手伝う)
当時の道路は舗装していないので、境川の砂利を敷いて、でこぼこをならして水たまりができないようにしました。この道普請は、他の多くの地区でも行われていました。
★楽しみだったこと
- 天縛皇神社のお祭り(7月23日の夏祭り /8月29日の祭礼)
- お正月
- 八王子のお十夜(サーカスや見せ物が来るのが楽しみで、家の仕事をとてもがんばりました)
★子どもの服装
冬は服の上に綿入れ半纏を着ました。
履き物はだいたい下駄で、たまに運動靴(ズックと呼ぶことも)を履いている子もいました。
夏は自分で作ったわら草履もはきました。
国民服を着た時代もありました
今の子ども達の生活とはだいぶ違いますね。
遊びは石の投げ合いはともかく、外遊びをみんなで考えて楽しんでいますね。
家の手伝いも、手伝いというよりは子ども達も一人前の働き手として、家事を分担しています。
今はとても便利になったので、家事の手伝いもだいぶ減りましたが、皆さんの周りの子ども達は、それなりに責任を持って担当する役割を持っているでしょうか?
コロナ禍で、今の子ども達は色々なことを我慢していますが、1日も早く以前のように安心して遊んだり生活できる日が来てほしいものです