「橋本郷土カルタ」であなたも “橋本の達人”に!!『ね』
こんにちは🤗 めぐり報です❗️
「橋本郷土カルタ」であなたも
“橋本の達人”に!✨
皆さまあけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします
今回は20枚目の「ね」のご紹介です。
「念仏講 南無阿弥陀仏で 和を深め」
(徳本念仏塔)
前 回の『つ』でご紹介した香福寺の近くに、『徳本念仏塔』(とくほんねんぶつとう)という石碑が建っています。
このため、かつて香福寺で念仏講が行われていたことが分かります。
念仏講というのは、念仏を修行する信者が集まって、念仏を唱える講中(集まり)のことです。
念仏は、日本では一般的に浄土教系の宗派で「南無阿弥陀仏」と唱える『称名念仏』を指すことが多いそうです。
通夜や葬儀の他に盂蘭盆会(うらぼんえ)や彼岸会(ひがんえ)、厄除け、雨乞いなど色々な時に集まって念仏を唱えたようです。
同時に、人々が集まって楽しむ娯楽の場にもなっていきましたが、橋本では次第に嫁の悪口や近所の噂話などが出るようになり、大行事(自治会長のような人)から厳重な注意を受けたこともあって、念仏講はなくなっていきました。
橋本では明治32年(1899年)に当時村長だった相澤菊太郎氏の金銭出納帳に、『念仏講月掛十銭』とあるのが最後のようで、そのあたり以降でなくなっていったものと思われます。
尚、念仏講の道具は香福寺に今も大切に保管されているそうです。
(カルタの読み札には『とくもと』とありますが『とくほん』と呼ぶ方が多いようです)
徳本は、宝暦8年(1758年)に紀伊国 日高郡で生まれた浄土宗の僧で、徳本上人・徳本行者と呼ばれていたそうです。
俗称は田伏氏で27歳の時に出家し、各地を巡りながら昼夜を通しての念仏など様々な苦行を行い、独学で念仏の奥義を悟ったとのことです。
江戸の増上寺の住職に招かれて小石川の伝通院にある一行院に住み、多くの庶民に念仏を広めました。
また、大奥の女中達にも信奉者が多かったとのことです。
江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織した後、関東全域・北陸・近畿まで足を運んだそうで、徳本が相模原に来て念仏を広めたのもこの頃と思われます。
徳本の念仏は、木魚と鉦(かね)を激しく叩くという独特な念仏で『徳本念仏』と呼ばれたそうです。
徳本念仏塔は、徳本が各村の念仏講を訪れた際に、その特徴的な書体で六字名号(南無阿弥陀佛)と書いてもらい、それをもとに建てた念仏塔です。
橋本の香福寺付近の念仏塔は字がとても読み取りにくくなっていますが、『徳本文字』と呼ばれる独特な書体で六字名号の『南無阿弥陀佛』とその下に田という字を丸くしたような(もしかして田伏氏だから❓)花押が書かれています。
(ネットで『徳本文字』と検索をしてみると、徳本の六字名号の字が出ていますので、是非確認してみてください。一度見たら忘れられない独特な書体ですよ)
相模原の徳本念仏塔は全て、市の『登録有形民俗文化財』に指定されています。
カルタが作られた時は、平成16年(2004年)に指定された13基だけでしたが、平成23年(2011年)に城山地区の11基が新たに加えられ、現在では24基が『登録有形民俗文化財』に指定されています。
(全国には1000基以上あると言われています)
★平成16年指定
- 橋本 香福寺
- 相原 正泉寺
- 無量光寺
- 上溝観音堂
- 上溝久保ケ谷戸
- 田名山王坂
- 田名南光寺
- 下九沢宮下
- 下九沢六地蔵
- 淵野辺龍像寺
- .大島長徳寺
- 大島日々神社
- 下溝古山
★平成23年指定
- 小倉宮原
- 三井
- 太井大蔵寺
- 久保沢観音堂
- 原宿地蔵堂
- 谷ケ原大正寺
- 小松薬師堂
- .中野青雲庵
- 中野友林寺
- 寸沢嵐沼本
- 大島上台
皆さんの近くにも徳本念仏塔があるかもしれませんね。
お散歩の時などちょっと気にしていただけると嬉しいです。
(私は橋本の他に相原正泉寺と上溝観音堂の徳本念仏塔を、地元の歴史の会の方に案内していただいて拝見したことがあります)
予定では8月にゴールするはずですが、さてどうなりますか…??
最後までお付き合いいただければ幸いです。🥰