こんな所に歴史あり【2016.6月号】
想 像出来ますか?
昭和40年代まで東橋本2丁目辺りには一面の麦畑が広がっていた事を。
しかし昭和33年の首都圏整備法で橋本が衛星都市指定され、
徐々に今の姿に変わってきました。
それまで先人達は、農業生産を上げようと
たゆまぬ努力を重ねていたようです。
橋本周辺は水の便が悪く、農業にはあまり適さない土地でした。
しかし江戸時代には清兵衛新田(清新地区)の新田開発、
明治には橋本新開の開発が進み、
薩摩芋、小麦などが主な作物として生産可能となりました。
また、大きな収入源として養蚕がありました。
蚕は大量の桑の葉を食べるので、
子供達も朝早く起き登校前に桑の葉摘みを手伝っていたそうです。
小麦は9月すぎに種を蒔き、翌年6月に刈入れをしました。
ちょうど暑い時期の脱穀作業だった為、
穂が舞い、痛痒く、作業する者は汗と埃で真っ黒になり、
目だけが光っていたといいます。
一軒の家で薩摩芋、小麦、などを同時に生産しているので、
当時は一年中働いていました。
更に、繁忙期には学校も数日の農繁休校となり、
子供達は一日中手伝いをしていたようです。
昭和まで続いた一面の麦畑には
先人達のたゆまぬ苦労があったようです。
byまさし
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