「橋本郷土カルタ」であなたも “橋本の達人”に!!『ひ』
こんにちは🤗 めぐり報です❗️
「橋本郷土カルタ」であなたも
“橋本の達人”に✨
今回は44枚目の「ひ」のご紹介です。
(今までで一番の長文です。ご注意下さい)
「日は西に 橋本宿へ 急ぎ足」
(橋本宿)
今回は「橋本の歴史を知る会」会員の、矢島祐一さん(89歳)のお話を中心にご紹介します。
矢島家は、江戸時代の寛文年間(1661年~1673年)から橋本宿に住んでいて、矢島祐一さんで10代目にあたるそうです。
(昭和31年…1956年に橋本7丁目に転居されています)
橋本宿は江戸時代初期に誕生したと言われていて、両国橋から香福寺付近の天神山までの長さ約340mの宿場町で、当時から交通の要所でした。
(現在の旧国道16号線に当たります)
江戸時代には、大山参りに行く人々が埼玉や八王子方面から来て、両国橋上手の精進場(カルタ「ろ」でご紹介)で身を清めてから橋本宿に入ったとのことです。
宿場は、南の香福寺の方から上宿・中宿・下宿と分かれていて、道の中央に掘り割りがあり、上宿方面からの野水や雑排水を流して両国橋の下手から境川に流していました。
この道の中央の掘り割りは、明治21年(1889年)に埋め立てられ、道の両側(各家の前)に素掘りの堀が新設されました。
(10年前に中宿の柚木榮司さんのお宅に伺った時に、道に出る時に渡った小橋の一部が庭に残っているのを見せていただきました)
橋本宿の家は通りに沿って整然と並んでいて、ほとんどの家が間口 幅 5間(9m)
奥行き30間(54m)くらいの細長い長方形の区画でした
これは京都のように税金が間口税だったからです。
(ただし、資産家の家は間口が11.5間(20.7m)ほどあり、現在も何軒か間口の広い立派な家が残っています)
どの家も藁葺き屋根で、風呂と便所は外にありました。
しかし、天保12年(1841年)の大火事で橋本宿一帯が大きな被害を受けたため、それ以降は火事に備えて「無尽」で順番に各家に蔵を建てました。
今でもあちこちの家に蔵が残っているのを見ることができます。
橋本宿の人々は主に農業に従事していました。
このあたりは火山灰土のため稲作には向かず、畑で麦・稗・さつま芋・大豆・大根などを作っていました。
その他養蚕も盛んで、家の中には広い蚕室があり、一家総出で蚕の世話をしました。
女性達は繭ができると大きな鍋で繭を煮て、足踏み機械で1日中糸繰りをしました。
また、農閑期には荷物の運搬・日雇い・宿場の休息所の接待などをしていました。
★おじいさんの時代(明治元年…1868年~大正6年…1918年)
矢島さんのおじいさんは、瑞光寺に開設された『本燃学舎』の第一期生で、橋本の歴史には欠かせない相澤安右衛門、菊太郎兄弟を始め19人と共に学びました。
5年生の時に使っていた『橋本学校(本燃学舎を改名)』の地理の教科書が矢島家に残されています。
この教科書によると、当時は八王子や多摩地区が神奈川県だったことがわかります。
また、おじいさんは農業や養蚕の他に生糸の仲買業もしていたので、仕入れた生糸を納めに八王子の市場に出入りしていました。その時に必要だった、「繭と生糸の仲買人の鑑札」も残っています。
★お父さんの時代(明治30年…1898年~昭和47年…1972年)
おじいさんが50歳で亡くなったため、お父さんは20歳で9人家族の家長になり、兵役に就いた後に相原村役場に就職しましたが大正12年(1923年)すぐに関東大震災が起こり、災害復旧に奔走する日々が長く続きました。
子どもが6人生まれましたが、上の3人がいずれも幼くして病気で亡くなりました。
その原因は、橋本宿特有の「間口が狭く、奥深い作りの家にある」
(…家の奥まで日の光が当たらず、夏は暑くて冬は寒い、裏から流れてくる野水のせいで常に湿気がある)
と医者に言われ、昭和31年(1956年)に九代の間住み続けた橋本宿を離れて橋本7丁目に転居したとのことです。
★矢島祐一さんの時代(昭和6年…1931年~)
子どもの頃に楽しみだったのは、3月と5月の節句・初荷・定例日に橋本宿全体で開かれる市でした。
市では露店商、チンドン屋、紙芝居などが賑わいました。
また、町田の吉川百貨店の人が、家に節句の人形などを売りに来た時に、蝋紙の風船を5、6枚もらえるのが楽しみでした。
当時の子どもの遊びは、羽子板・お手玉・コマ回し・凧揚げ・カルタ・縄跳び・竹馬・兵隊ごっこ・魚釣り・自転車乗り・鬼ごっこなどでした。
相澤本家の郵便局でいつもラジオをつけていたので、友人とよく相撲放送を聞きにいきました。
当時は双葉山・照國・前田山・羽黒山などが人気でした
第2次世界大戦が始まった昭和16年(1941年)以降は、橋本宿でも各家に防火水槽や防空壕を設置しました。
また、兵器の増産のために増員された造兵廠の工員を各家に分宿させることになり、矢島家には新潟の人が2人、2年くらい下宿していました。
香福寺と瑞光寺には学童疎開の子ども達が滞在していて、月に一度親子面会の時に、母親が重箱に食べ物をたくさん詰めてきているのを見ました。
親子で一緒に楽しく過ごした後の、別れの辛そうな姿が忘れられません
香福寺には横須賀市立不入斗小学校の子ども達が2年くらい滞在していました。
以上のお話は、矢島祐一さんに平成30年(2018年)9月の「橋本の歴史を知る会」の定例会と、平成31年(2019年)2月の市の「文化財展」で話していただいたものです。
歴史の専門書や歴史研究家の書物には載っていない、「庶民の目から見た橋本宿」というテーマで話していただきました。
明治初期から昭和の戦時中までの橋本宿の様子が、矢島家三代にわたって生き生きと伝わってきて、とても興味深いお話でしたので、ぜひ皆さんにも知っていただきたく、ご本人に許可をいただいて今回まとめました。
いつも通っている旧16号線(橋本宿)にもこんな庶民の歴史がたくさん詰まっているのですね。
皆さんも、身近な方から貴重な昔のお話を聞いてみませんか❓
今回の参考文献は…
·「庶民から見た橋本宿」(矢島 祐一)
·「橋本の昔話」(加藤 重夫)