「橋本郷土カルタ」であなたも”橋本の達人”に!!『ほ』

こんにちは!めぐり報です!

「橋本郷土カルタ」であなたも
“橋本の達人”に!!

今回は5枚目の「ほ」のご紹介です。

「北条の 落武者哀れ 供養塚」
(供養塚)

 

 

1.供養塚には何があるの?

橋本駅南口から相模原協同病院に向かう道沿いに、『供養塚』と呼ばれている小さい丘があります。

人通りの多い場所ですが、この丘やここに建っている3基の大きい石碑と、小さい1基の石柱が何なのかを知っている人は案外少ないのではないでしょうか?

大きい石碑は、左から第二次世界大戦の戦没者のための『忠魂碑』(昭和30年1955年建立)
2番目と3番目は、日清・日露戦争に従軍した犠牲者を悼む『表忠碑』『戦没者顕彰碑』(共に明治42年1909年建立。表忠碑の碑文は山県有朋の筆)
そして少し手前の街灯の脇に、実は一番大事な『供養塔』という小さい石柱が建っています(明治31年1898年建立。一番古いものですが、石柱は新しく作り直されています)

 

 

2.なぜ「供養塚」と呼ばれているの?

実はこの場所は、永禄12年(1569年)10月の『三増合戦』(みませかっせん)で敗退した北条方の落ち武者の一部が、八王子の滝山城へ引き返そうとして道を誤り、力尽きた数十人が自刃した場所と言われているのです :ギャー::交差した刀:

長い間そのままになっていましたが、329年後に橋本の人々が、自刃した落ち武者達を哀れに思い、慰霊するために『供養塔』を建立したことから、以後この場所が『供養塚』と呼ばれるようになったとのことです。

また明治42年(1909年)に『表忠碑』と『戦没者顕彰碑』を建立するために供養塚を発掘したところ、三増合戦当時のものと思われる武具・刀剣・銅銭などが、少量ですが発見されたそうです。

◆三増合戦…武田信玄と北条氏康の軍勢が愛甲郡三増峠で戦った合戦。

 

三増合戦のあらましの内容

三増合戦のあらまし
世は戦国、永禄一二年(一五六九年)十月。小田原攻めの作戦を計画した
甲斐(山梨県)の武田信玄は、主力二万を率いて、小田原城の北条氏康を
攻めた後、「鎌倉鶴岡八幡へ参詣」と偽りの報を流しながら撤兵し、
平塚で進路を北に変え、甲斐への道をとった。
この情報を得た氏康は、敵は必ず三増峠を越えるものと判断、子の
氏照、氏邦、一門の綱成ほか関東各地の将兵ら二万を向かわせた。
先に三増の地に着いた北条方だが、いったん半原台地に退き態勢を
整え、その上で武田方に対陣しようとした。この間に武田方は、三増の
高地に陣を敷き、旗を立てた。また、津久井城にいる北条方の動きを
押さえるため、重臣の一人小幡信定の隊を津久井長竹に配置した。
陣容を整えた北条方は、志田、道場、町屋の原に兵を進め、ここに
三増合戦は開始された。激闘は北条方有利のうちに展開。武田方の
侍大将浅利信種は、綱成の部下が放った鉄砲で胸を撃たれて戦死した。
北条方は武田方を高地の下まで追いつめていった。
しかしこの時、先に中峠を登っていった武田方山形昌景らの指揮する
五千の精兵が山の向こうで折り返し、志田沢沿いをくだってきて北条方の
側背に現れた。これを機に武田方の旗本が真正面から攻めかかったこと
で、北条方は総崩れとなり、中津川を越え、半原山に逃げた。
氏康の嫡男氏政以下一万の本隊は、荻野新宿(厚木市)まで駆けつけて
きたが、時すでに遅く、敗軍と聞いて小田原へ引き返した。
信玄は長追いをせず、軍勢をまとめて串川(旧津久井長)から反畑(旧相模湖長)
に出て、ここで戦勝の式を行い戦死者の供養をし、翌日甲府
に向けて帰陣した。「甲陽軍鑑」によると戦死者は北条方三二六九人、
武田方九〇〇人とあり、戦いの激しさを示している。

平成三年二月 愛川長教育委員会


三増合戦場碑:〒243-0308 神奈川県愛甲郡愛川町三増1126

3.供養塚の東側の道はあの◯◯◯:びっくり_赤:

供養塚の東側の道は、実は大山参りの人々が両国橋から橋本宿、大山街道踏切を経て大山へ向かう『大山道』(大山街道)です。

 

 

道路沿いに石柱が建っていますので、車や通行する方に気をつけて、ぜひ確認してみてください。

踏切に「大山街道」の名前が残っているのも嬉しいですね。🥰

 

◆いつも何気なく通りすぎている場所にも、こんなふうに色々な歴史が秘められています。皆さんも明日から、この場所がちょっと違った景色に見えるかもしれませんね。:やっほー:

◆今回、撮影のために数年ぶりに愛川町の三増合戦の碑がある場所に行ってきました。愛川町教育委員会が設置した、三増合戦の詳しい内容の説明板や、合戦の両軍の軍勢の配置図などがあり、色々学べるようになっていますので、ご興味のある方はぜひ訪ねてみてください。

◆ただ、戦で怪我をした状態で、愛川町から橋本の供養塚の場所まで歩いて落ち延びてくるなんて、本当に大変だったろうな〜と思いました。
力尽きて「もはやこれまで:超びっくりマーク::大泣き:」となるのも無理もありません。(私には到底ムリ:超びっくりマーク::ギャー:

 

 

歴史さんぽ:橋本南地区コース31、32

表忠碑:橋本2丁目7−4