「橋本郷土カルタ」であなたも “橋本の達人”に!!『お』
こんにちは🤗 めぐり報です❗️
「橋本郷土カルタ」であなたも
“橋本の達人”に✨
今回は 27枚目の「お」のご紹介です。
「往時には 榧の木影に 学舎あり」(瑞光寺)
1.瑞光寺の学舎って?
このカルタで取り上げられているのは瑞光寺で、元橋本6丁目にある、天正14年(1586年)に開山された曹洞宗のお寺です。
境内には樹齢630年以上と言われる大きな榧の木があり、禅寺らしい静かで落ち着きのあるお寺です。
平成22年(2010年)には立派な本堂が新しく建立されました。また、瑞光寺の山門前の道は古道の鎌倉街道で、静かな趣を残しています。
それから瑞光寺裏手の場所で八王子バイパスの工事をした時に、縄文時代の土器や石器がたくさん出土し、「橋本遺跡」と名付けられました。また、新本堂建設時に須弥壇の直下から、竪穴式住居跡が発掘されたそうです。
瑞光寺では江戸時代から寺子屋が開かれていましたが、明治5年(1872年)に明治政府から出された就学令に基づき、明治6年(1873年)に寺子屋が「本燃学舎」という名前になりました。
初代の教師は住職の安田米斉氏が任命され、橋本宿近隣の6歳~12歳の学齢の子ども達60数人のうち、20人が就学しました。
(当時の就学率は32%くらいだったらしいです。)
瑞光寺の山門手前右側に建っている、本燃学舎の碑の裏には、一期生の20人の名前が刻まれています。
橋本の歴史に深く関わっている相澤安右衛門、相澤菊太郎兄弟の名前も見られます。
20人のうち女生徒は加藤タキさんと牛久保イトさんの2人だけです。
当時女の子は学校に行くよりも家の仕事をさせられていたためと思われます。
「続 橋本の昔話」(加藤重夫 著)の中の長田かな子さんの寄稿「加藤タキ女のこと」によると、加藤タキさんは後年、近所の読み書きができない女性のかわりに手紙を読んであげたり、返事の代筆をしたり、読み書きを教えてあげたり していたそうです。
尚、当時このあたりにには橋本村の瑞光寺の「本燃学舎」、小山村の蓮乗院の「養麟学舎」、相原村の正泉寺の「益進学舎」の3つの寺子屋がありました。
2.その後の学校の移り変わりはどうだったの?
本燃学舎ができた2年後の明治8年(1875年)に本燃学舎は「橋本学校」と名前を変え、その後明治30年(1897年)に児童数の増加に伴い、瑞光寺から香福寺西側の高台の「天神山」と呼ばれていた場所に移りました。
さらに明治35年(1902年)に橋本学校は相原学校(益進学舎)、小山学校(養麟学舎)と統合し、現在の旭小学校の場所に移転して「相原村立学校」となりました。そして、翌年の明治36年(1903年)に「相原村立旭尋常小学校」と名前を改めました。
(この改名にまつわる有名なエピソードは「こ」の札の時に詳しく…)
この小学校が後の旭小学校、橋本小学校、宮上小学校、旭中学校の母体となって、橋本地区の学校の始まりになり、更にその始まりが瑞光寺の本燃学舎というわけです。
皆さんもぜひ橋本の学校の始まりの地、瑞光寺を訪ねてみませんか?
今回の参考文献は…
·「橋本の昔話」(加藤重夫 著)
·「続 橋本の昔話」(加藤重夫 著)
·「『橋本郷土カルタ』で巡る橋本の歴史 と文化」(井上研一 著)
·「橋本の歴史ガイドブック」(橋本の歴史を知る会」
·「瑞光寺パンフレット」(瑞光寺)