「橋本郷土カルタ」であなたも “橋本の達人”に!!『む』

こんにちは!めぐり報です!!

「橋本郷土カルタ」であなたも
“橋本の達人”に

今回は23枚目の「む」のご紹介です。

「村拓く 原清兵衛が 先に立ち」
(清兵衛新田)

 

 

 

 

 

1.原清兵衛とはどんな人?

原家は小山村の豪農で、代々名主を務めた家柄です。
原家の当主は代々清兵衛と名乗っていて、ここで取り上げる清兵衛は原清兵衛光保(寛政7年 1795年〜慶応4年 1868年)のことを指します。

清兵衛は、長男が成人したのを機に天保11年(1840年)に45歳で長男に家督を譲り、前から考えていた開墾の許しを、当時この地方を治めていた代官の江川太郎左衛門に願い出ました。
しかし、当初は入会地の3分の2を失う小山村を始めとする7カ村の大反対に合い、大変な苦労があったようです。

 

入会地…雑草や雑木が繁っている場所で、雑草は堆肥や飼料、雑木は燃料として利用していました。
7カ村…小山・橋本・相原・上九沢・下九沢・大島・田名の7つの村で、農民達が共同で入会地を利用していました。

 

 

2.清兵衛新田の開発とは…?

その後、代官所の説得や原家からのかなりの資金の提供もあって、ようやく3年後の天保14年(1843年)に江川太郎左衛門から約200町歩(約198ヘクタール)の開墾が許可されました。

開墾の区域は今の相模原市役所あたりから南橋本方面にかけての範囲で、これは相模原市内の開墾地の中では最大の面積です。
開墾の本部は蓮乗院に置かれ、江戸幕府の役人が泊まったり、会合を開いたりしたそうです。

 

本部が置かれた蓮乗院

 

 

集まった入植者49名は、ほとんど近郊の村々や今の東京・埼玉の農家の次男・三男でした。
しかし、せっかく開墾しても火山灰のやせ地のため、そば・粟・稗・大麦・小麦などしか栽培できず、収穫量も乏しくて厳しい生活でした。

水にも苦労し、30mも掘った井戸が4〜5軒に1つしかなく、遠くまで水を汲みに行く生活でした。
そのため水を節約して手足を水で洗わず、手ぬぐいなどで土をはたき落とす『はたき洗足』をして家に上がる有り様でした。

13年後の安政3年(1856年)の検地の時には入植者が24名に減っていました:ギャー:

大変厳しい生活のため、早死にしたり逃げ出したりしたものと思われます。
この清兵衛新田があった場所は、現在その名の一部を取って『清新』と呼ばれています:うふふ:

 

相模原市立博物館に開墾当時の農家の建物を再現したものが展示してあります。当時の厳しい暮らしの様子がうかがえますので、博物館に行かれた時はぜひご覧ください。

 

清兵衛新田の鎮守として建てられた氷川神社(清新4丁目)に明治45年(1912年)開墾碑が建立されました。表の書は徳川慶喜公によるものです。裏には前田夏繁氏による清兵衛新田についての大変詳しい碑文が彫られています。

 

 

原清兵衛のお墓は菩提寺の蓮乗院にあります。

 

 

 

職場で『江川太郎左衛門』(今西祐行:著/さ·え·ら書房刊)という児童書を見つけました。
(残念ながら清兵衛新田のことは出ていませんでした)

彼は享和元年(1801年)に生まれて35歳の時に韮山代官になり、伊豆・駿河・相模・武蔵・甲斐の五国を治めました。
勉強熱心で庶民の苦しい暮らしにも理解を示す人だったようです。

後に世界遺産になる韮山の反射炉の第一号を作ったことでも有名とのことです:ヒー:
(この本は橋本図書館にはありませんが、他館から取り寄せ可能です)